202X年5月17日 水曜日
由衣とヘアサロンへ行ってから10日後。
紗希はとても、とても忙しかった。
はじめから読む:運命の輪 vol.1~動きだす“時間”~
まずあの日、家に帰り着いた紗希を待ち構えていた母。
玄関の扉を開いた瞬間、怒声が響いた。防音壁を通り越して外に聞こえるんじゃないかと思ったほどだ。
勝手に出かけたこと、遅く帰ったこと。そしてヘアスタイルを変えたこと。
何もかもが母は気に入らなかった。
紗希が何か話そうとしても、全く聞く耳を持たなかった。
子どもの頃からそうしてきたように、紗希はただ嵐が過ぎるのを待った。
違ったのは子どもの頃のように怖くはなかったこと。
ただ自分を空っぽにして時間が経つのを見つめていた。
何も言わない娘を前に、母は目を真っ赤にして最後に言い放った。
「言うことが聞けないなら、出て行きなさい」
本気ではなかっただろう。
子どものころのように「ごめんなさい、もうしません」と紗希が謝ることを想像していたに違いない。その証拠に紗希が「わかったわ」と告げたとき、母は顔を強張らせていた。
そして荷物をまとめ、紗希はその日からホテルに宿を取った。
1週間、溜まっていた休みを申請し、まずは部屋を決めた。
働き始めてから、家に決まった額をいれていた以外は殆ど貯金してきた。部屋を借りることはもちろん、マンションを買う頭金ぐらいは十分にある。
前々から便利そう、と考えていたエリアでたまたま空きが出ていた。
駅から直結で2年前に建築されたばかりのタワーマンション。
50階建の22階。3LDK。
家族でシンガポールへの移住が決まったから売りに出されたという話だった。
「いかがでしょう。とても綺麗にお使いでリフォームの必要もございません」
不動産屋の担当者は家具の運び出された部屋を隅々まで案内する。
東南に面した角部屋は景色も良い。
「気持ちの良いお部屋ですね」
売り出された価格も予算内。
紗希は内覧してその場で契約を決めた。