NOVEL

御前崎薫は…vol.8~誘う~

「あれ。御前崎さん、来ていたんですか」

次の日曜日。槙さんと行ったボルダリングジムで課題に挑戦していると、驚いた顔で槙さんに話しかけられた。

 


 前回:御前崎薫は… vol.7~打ち明ける~

はじめから読む:御前崎薫は… vol.1~女が怖い~

 

 

壁から離れた僕は飲み物を口にしながら、「はい」と頷く。

「やっぱり先週、楽しかったので。せっかくだから、チョークと靴も買いました」

「わぁ……良いの買いましたね、シューズ……」

「自分じゃよく分からないので、お店の人に相談したらこれが一番良いって言われて」

そう答えると、槙さんはくすっと笑い、「良いんじゃないですか」と自分の荷物を、近くの椅子に置いた。

「長く続けるなら、良いものを買うのが正解だと思います。シューズでもけっこう、踏ん張りが変わってきますから」

 

僕がやっていた課題のある壁では、別の人が挑戦している。その間、椅子に座って休んでいると、身体を解し終えた槙さんが、少し角度のある壁で課題に取り組み始めた。するりするりと、まるで蛇やトカゲのような。思わず見入ってしまうような、綺麗で無駄のない動きで、壁を登っていく。

 

「……槙さんは、いつもここに来てるんですか?」

戻ってきて汗を拭いている槙さんに声をかけると、予想外に、少し困った顔をされた。

「実は、ここに来たのは先週が初めてなんです。課題が面白かったから今日も来てみましたけど、いつもは、もう少し近場のジムで」

なるほど、と思う。そりゃ、よく知りもしない――そして苦手な異性を、常連となっている場所には連れて行きたくないよな。その気持ちはよく分かるから、それ以上触れないことにした。

 

「僕はずっと、趣味とかに時間を使うのが無駄な気がして、あまりこういうこと、やってこなかったんです。その分、仕事に時間も力も注ぎ込みたくて」

「御前崎さんは、会社を経営なさっているんですもんね」

「でも、やっぱりそれだけじゃダメなんだろうなって。前回ここに来てから考え直しました。頭を違うことに使ってみると、すっきりすると言うか。仕事をする上でも、別の考え方が見つかったりして、面白いです」

「それはありますよね。マインドフルネスが想像性を高めるって言いますけど、近いものを私も感じます」

こくこくと頷く槙さんを見ながら、あぁ、この人も仕事が好きな人なんだろうなと思う。

 

「正直、僕がここまで仕事を頑張ってきたのは……仕事が好きだという気持ちもあるんですけれど。どちらかと言うと、『努力』をバカにされたあの手紙を、見返してやりたかったのが、そもそもの出発点だった気がします」

槙さんが、ごくりと水を飲む音が聞こえる。ボトルから口を離した槙さんは、少ししてから「そうなんですね」と頷いた。

「でもおかげで、なんというか……もっとポジティブな気持ちで、これからはもっと仕事を楽しめそうです。ありがとうございます」

「いえ、私は別に……」

そう手を振ってボトルを置くと、槙さんは「えぇっと」と唸ってから僕を見た。笑っているでもない、怒っているでもない、無表情なのでもない――もっと真剣に、こちらと向き合う、そんな顔。

「私、御前崎さんのこと、同志だと思ってますから。だから……なにか私にできることがあったら、言ってくださいね」

 

それだけ言うと、ぺこりとして彼女は新しい課題へと向かっていった。

壁を見つめ、考え、そしてホールドに手を掛ける。

 

素敵だな、と思う。