夕方って何時かを聞く前に、仲井は慌てながらいつの間にか飲み切ったコーヒーにタバコの灰を落としている。
「ちょっと…」
「今は何処行っても禁煙、禁煙で困ってよう。」
「店内喫煙可じゃないですけどね!」
仲井は、吹き笑いをしながら出て行く。
開店と同時に起こった嵐が去って残されたのは、仲井の残り香と、割れた鉢植えだった。
その日も花の世話をしながら発注を掛け、それなりに忙しく立ち働いた。
その間中考えていたのは、仲井の奥さんとはどんな人か?という事だった。
仲井は普段から、〝何処そこの店の何ちゃんに渡したい“と明確な注文をくれる客だったが、今回は漠然と…〝嫁さん″の一言だ。
相手のイメージに合わせてアレンジをする佐伯にとっては、送り主への気持ちだけでも見えないと、アレンジが沸いてこない。
「すみません!」
「はい…。」
気付くとすっかり夕方になっていて、入り口のガラスがオレンジ色の夕日を反射して、直ぐに誰が来たのかを隠してしまう。
少したってから顔を出したのは、昼の娘を連れだったリナだった。
「あのう、この子がご迷惑をかけたようで…」
「いえいえ。全然!」
咄嗟に何を言われているのか仲井の記憶に上書きされ、それこそピンとは来なかったが、リナの背後で俯いている娘の視線が、植え替えたコリウスの方に向けられたのを見て、唇を歪ませ、頭を掻いてみせた。
「ああ、あれは…良いんですよ。売り物じゃないですし…」
「本当にごめんなさい!奈緒あんたも謝りなさい!」
「いや、本当に良いんですよ。それより…スイートピーの花束の感想の方が、欲しいです。」
良い人を気取りたい訳ではなかった。
ただ、肩身狭く立ちすくむ少女が、きっと久々に母親と居られるこの瞬間を、これ以上ピリピリさせたくはなかった。
「奈緒さんっていうんですね。…妹さん。」
佐伯が意地悪そうに笑うと、奈緒は不審そうにキョロキョロして、リナは顔を赤くしていた。
元ホストの記憶力を舐めてもらっては困る。
学はなくても、女性と交わしたちょっとした会話を記憶する術には長けていた。
「あのう…私、勘違いしてて。てっきり、新しい男かと思って。」
しどろもどろに、奈緒が説明する姿は可愛く見える。
「今まで、あんな花束とか、買ってきてくれた事ないから…」
「それは、センスが良かったってことかな?それは、嬉しいなぁ!」
軽口が跳ねだすと、リナが嫌悪を露わにした。
「奈緒!もういいわ。怒ってないみたいだし、帰るわよ。騙されちゃだめよ。この人も元ホストなんだから!」
リナの瞳には佐伯が映っているのに、リナは佐伯を見ていない。
「おお、珍しいな!この店にこんな美女が沢山いるなんて。」
狭い通路を塞ぐように、仲井が立ちはだかる。
「ああ、いらっしゃい…」
複雑に絡み合った、感情の迷路から飛び出すように、リナは奈緒を掴んで外に出て行こうとした時に、スマホが鳴った。
リナは慌てて「もしもし!」と通話を始めて、一人で店外に出ていく。
残された奈緒は、斜め45度に背を曲げ「本当にすみませんでした!」と謝罪している。
「奈緒ちゃんは、お花好き?」
「好きだけど…お世話は苦手。」
―花は枯れるのが早いけど、この葉ならずっと見ていられるから。―
息が詰まりそうな、二人のバランスを仲井が崩す。
「それなら、この鉢でも上げたらどうだ。これ花は咲かせないんだろ?
それに、一旦割れてんだし…お試しにどうだ?」
仲井は佐伯がコリウスの鉢植えをどんな気持ちで育てていたのか、誰よりも身近に感じていただろう。
『叶わぬ恋』という勲章と共に、育てられた哀れな植物は強く育った。
花をもがれても、葉に色彩を浮かべ…その主を見失うまで…。
新たな主を見つけるまで。
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