「まさか、お隣さんだったとは……存じ上げず、失礼しました」
「お隣……え?」
免許証を拝見したので、と彼女は小さな声で付け加える。
「隣の部屋に住む、槙と申します」
「あ、はぁ。そう……なんですか」
道理で、同じ帰り道になるはずだ。疑いは晴れたけれど、別の気まずい空気がその場に澱んだ。
「僕、あまり家にいることがないんで……」
「そうですか」
短い相槌を打つ彼女に、サッとカーテンを引かれたような気持ちになる。きっと、他人に深入りしないタイプなんだろう。ずけずけと身分証を要求してきたことを考えると不思議な感じはするが、まぁ、深入りされたいわけでもないので結構なことだ。
なんとなくお互い、無言のまま歩き出し。当然、共にマンションに辿り着く。
(一緒にエレベーターは……勘弁だな)
狭苦しい場所に二人きりになることを考えただけで、文字通り息が詰まりそうになり、軽く胸を叩いた。
(さっき確認したけど、ポスト見てから帰ることにするかな……)
実際に確認しなくとも、そういう素ぶりをすれば、彼女と自然に離れることができるだろう。そう動こうとした途端。
「それでは、失礼します」
僕が行動に移すより早く、彼女が会釈し、ポストへと向かっていく。
「あ、はい。それじゃ……」
僕は不意をつかれた形になり、もごもごとそれだけ返して、結局そのままエレベーターへと向かった。その中に足を踏み入れた途端、自然と深く長いため息が出た。
「……助かった」
音も立てず、なめらかにエレベーターは上へと昇っていく。部屋のある階まで、ほんの一分もかからない。
自分の部屋まで辿り着き、鍵を開けて中に入ると、まるで何時間も出かけていたかのような疲労感に襲われた。
ほんの数分歩いた先のコンビニへ向かっただけなのに、同窓会の通知にトラウマをえぐられ、フラッシュバックを起こし、おまけに変質者と勘違いされて――。
「しんど……」
玄関でもう一度深いため息をつき、のろのろと靴を脱ぐ。洗ったばかりの湯船にお湯をはり、溜め終わるまでソファでぐったりとしていると、微かな物音が聞こえてきた。
(隣……帰って来たんだな)
隣人の生活音なんて、今まで気にしたこともなかったけれど。隣に槙とかいう彼女がいるのだと思うと、のどのあたりが詰まるような感じがする。
「やっぱり、さっさと引っ越すかなぁ……」
牛丼を食べるよりも、この気持ちをさっぱりさせたくて、少し早いけれど風呂場へ向かう。のそのそと服を脱ぎ、シャワーを浴びて半分くらいたまった湯船につかると、身体だけでなく心も解れるような心地がした。
「変質者……かぁ」そう、直接彼女に罵倒されたわけでもないけれど。そう疑われたということは、ぐりぐりと僕の心臓を抉(えぐ)っていた。
女性と関わりをもつなんて、こっちこそお断りなのに。それでも、むこうからこうやって突っかかってくるんだから。自意識過剰というか、ほんと、女なんて――。
……ふと。
そこまで思いかけたところで、キュッと眉を寄せた彼女の表情が頭を過った。
夜、背後からどこまでもついてくる足音。このままだともうすぐ家についてしまう――となったとき。