遠くから美しいピアノの旋律が聞こえてくる。
私は必死に彼を見つけようとしていた。池で見つけ一輪の手折った桃色の花を握りしめて。ここは蒼と緑色に染められた広い森の中。
遠くからくすんと鼻を鳴らす声が聞こえた。きっと彼だと引き寄せられるように草を掻き分けた。目の先には泥で汚れた制服姿でしゃがんでいる少年が見えた。
前回:ルピナス―芽吹く街角で 第一章 vol. 5~私は、ここにいたくない...。この世は全て金だと思っていた令嬢が下した最後の決断とは?~
はじめから読む:ルピナス―芽吹く街角で 第一章 vol.1~世間知らずの令嬢インフルエンサー、500万フォロワー女子の悩みとは?~
「ノアくんっ!」
私が駆け寄ると、ゆっくりと顔を上げて私をじっと見つめた。澄んだ栗色の瞳、頬には涙の後がくっきり残っている。
「大丈夫?」
「かれんちゃん...」
鈴のような声が私に向けられて、思わず照れ臭くなって少し強めに彼の泥を拭ってやる。
「どうして来てくれたの?みんな、僕のことを嫌ったりなじったりするのに」
蓮城ノアくんは日本生まれだけどハーフだという。それでクラスメイト達は見た目から彼をいじったりつついたりするんだ。
でも私から見ると、それは美しいものへの嫉妬だ。彼は今まで出会った中で一番綺麗。
「ノアくん、ほら見て」
私は背中に隠していた花を見せた。
「これは、なに?」
「池に咲いていたの。蓮の花」
「とても綺麗な花だね、僕、知らなかったな」
微笑む彼の横顔を見つめ、私はずっと思っていたことを口にした。
「ほら、同じ文字がね、私とノアくん、両方ともあるの」
蓮城ノア、佐々木夏蓮、どちらも名前に”蓮”ってあるでしょ?
「ノアくん、友達だからさ。私たちと同じだからさ」
「うん」
「私が守ってあげるよ。一緒にいたらきっと怖くないよ」
シンプルなピアノの旋律に、美しい女性ソプラノの声が重なる。
「ありがとう、かれんちゃん」
友達なんて、嘘。
心乱されるほど大好きで、誰にもとられたくはなかった。
綺麗な彼を独り占めしたくて、皆が彼を一人にするようにしたの。
私の綺麗で、忘れたい過去。でもほんとは忘れたくない初恋。
蒼と緑で染められた、深い森の昔の秘密。
◆
「慎斗さん、祈里さん、ご婚約おめでとう!」
大勢の拍手と歓声が聞こえ、シャンパンが次々に開けられる音がする。
今日はイタリアンレストランを貸切にして友人達を招いたプライベートなパーティが開かれていた。
有名国立大学を卒業してから外資系企業に就職して、苦しい毎日を送る中で時だけが過ぎ、私も今年で28歳になっていた。
郵便ポストには同僚や友人達の結婚式の招待状や報告する写真つき葉書が毎日のように届き始めた頃、大学からの親友が婚約しパーティを開くというのでやって来たのだ。
パーティには親族などの姿はなく、婚約披露パーティと言いつつも体の良い「出会いの場を提供するパーティ」だった。来ているのはハイクラスの同世代ばかり。和気藹々としつつも自分のパートナーに相応しい異性を嗅ぎ回っている。
大人の雰囲気に年代物のワイン、そして美味しいオードブルたち。センスの良い間接照明、そして高台に建つレストランから望む名古屋を一望できる景色に心を酔わせた男女たちが楽しげに会話を楽しんでいる。
でも、私は毎週のように婚活パーティに参加していたため、この風景は何度も体験していた。少し人から離れたくてワイングラスを手にしたまま部屋から出ようとした。するとレストラン入り口がリンと鈴を鳴らし開いた。