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連れてこられた場所に私は思わず持っていたカバンを落としそうになった。
「散らかっているかもしれないけど、入って。あ、先にタオル持ってくる」
そこは名古屋市の一等地にあるデザイナーズマンション。でも一軒一軒が独立しててマンションというよりヴィラみたい。
ふかふかのタオルを手渡されても、はじめて出会った時みたいにびっくりしすぎて、ぱくぱくと口だけが動いて言葉が出てこない。
「なんか鯉みたい」
「ちがっ!ちがうもん!」
私はがしがしと乱暴に髪の毛や首や服を拭った。本当にセンスの良い家をはじめて見た。
「洋服濡れているし、お風呂入る?」
さらりとそんな事言われてドキリとした。
今までなら「家に来る?」は「セックスしよう」だった。
まだ私は彼の名前と年齢と詩しか知らない。ちょっと性格は不思議だけどよく見るととても容姿もいいし背も高い。柔らかな声、きっと彼を愛する女性は多いんだろう。そして愛してない一夜の女も多いんだろう、私もその一人なんだろうけど。
「…うん。じゃ浴びさせてもらう」
私は意を決して、新しく買ったびしょ濡れのプーマのスニーカーを脱ぎ、案内され浴室兼洗面所へ通された。
とても一人暮らしだとは思えない広くて豪華な内装、洋服を脱ぎながら彼は何者なのかと私は思っている。
恐らくここは自宅ではなくて、仕事部屋とかなんだろうか?
真っ白な浴室で浴びるシャワー、これから何があるんだろう、彼は私を抱くんだろうか?だって泊めてくれるんだもの。
私の価値なんてそんなもの、泊める代償は求められるもの、分かってる。
分かってるけど、もし抱かれたら…少しだけ寂しい。
シャワーから上がり、何故か用意されている少し大きめの短パンとTシャツが丁寧に畳まれて置かれていた。思わずTシャツの柄を見てぷっと吹いてしまう。
「…ダサっ」
下着を身につけ、借りた洋服を着てリビングへ戻ると山茶花はソファーに座り、本を読んでいた。私に気が付くとにこっと微笑む。
「あ、お先でした。アユムさんもお風呂どうぞ」
思わず頬を赤らめながら、私はおどけて言ってしまう。
「ぼくも風邪ひきそう、入ってくる。あ、自由にしてて。台所にコーヒー作っておいたから」
マメな人だなあ、と窓から見える美しい夜景に見惚れつつ、ダイニングキッチンにセットされたコーヒーメーカーの暖かなカフェオレを一口飲む。
「あったかい」
カップを持ったまま、書斎へ戻ると本棚には著名作家や詩集、そしてとある本が目に止まった。
「四角の窓から見える風景 山茶花アユム」
それは数年前に話題になった詩集だった。彼は意外にも有名な詩人だったのだ。
思わず手に取りカップをそっと近くのガラステーブルに置き、表紙を開く。
そこにはイラストで病院のベッドに腰掛ける後ろ姿の青年、そして目の前には四角い窓。窓の外には飛ぶ鳥、青い空、白く流れる雲、四季折々変化する木々が映し出されていた。
ページをめくる。
『生まれてからの記憶はありますか?
僕の記憶は真っ白なシーツと、父と母の心配げな顔だった
幾度も僕の胸には穴が開き、その都度命が刈り取られていくよう
命など木々から落ちる葉のようだと人が揶揄することはある
だけど僕の場合はもぎ取られる時を待っている
いつだろうと思う
怖いなんて、悲しいなんて、そんなこととっくに昔の記憶で
いつこの痛みが終わるのだろうかと、願う日々
神様、僕の身体を切り刻んで面白いですか?
苦しめて面白いですか?
人間には時々、そんな人が必要なんですか?
それが僕の、生まれた時の記憶なのです』