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ウィンタースポーツの定番 スキーの魅力にせまる【歴史編】

 

寒い冬が訪れることを嫌だな、と感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

そんな冬にも、雪上や氷の上を滑る気持ち良さを気軽に体験できるアクティビティがたくさんあります。中でも「スキー」は、代表的なウィンタースポーツといえるでしょう。周りに広がる銀世界を堪能できる点もスキーの魅力ではないでしょうか。

今回は、スキーの歴史に迫ります。歴史を知ることで、より一層スキーに魅力を感じるはずです。

 

スキーの発祥

現在は当たり前に楽しまれているスキーですが、実は数千年もの歴史があるようです。

スキーの起源は紀元前1万年から紀元前2500年ごろ、雪上での移動や狩猟を行うための手段がはじまりだったそう。これまでに発掘された遺跡や壁画によると、紀元前1万年ごろの北欧や紀元前8000年ごろの中国などでスキーが行われていたようです。

冬の移動手段として使用されていたスキーはその後、軍事目的で使用されるようになります。1600年代のノルウェーでは軍隊にスキー訓練があったとか。

時が経ち、1769年になるとノルウェーで最初のスキー競技会が開催されます。これが、スキーがスポーツになった瞬間と言われているようです。

1800年代になるとスキー板の断面をターンしやすいように曲げたり、足と板を固定するビンディングが考案されるなど、滑走するための基本的な技術が開発されるようになりました。

1825年にはスキー板の先から末端までの側面を曲げ、サイドカーブをつける改良がされ、1860年代には、足とスキー板を固定する器具も考案されます。こうして徐々に滑走性能を高めていきました。

 

また、スキーはこれまで1本のストックで滑走するスタイルでしたが、1900年代前半になると2本のストックで滑走する現在のスタイルに変化していきます。

スポーツとしてのスキーの技術がさらに発展し、モーグルやエアリアル、フリースタイルスキーも流行し始めました。

 

スキーが日本伝わる前に起きた大悲劇

 

日本にスキーが伝わる9年程前の明治35年、青森県八甲田山で訓練のため雪中行軍していた日本陸軍青森歩兵第5連隊の軍人199名が命を落とす事故が起こります。

これは、世界最大級の山岳遭難事故と言われ小説や映画の題材となり、山岳小説で有名な新田次郎氏の著書「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」やこの小説をもとにした映画「八甲田山」などが有名です。

雪中行軍は当時ロシアとの戦争に備えた山岳訓練で、ロシア軍が津軽海峡を封鎖し八戸方面に侵攻上陸した際、駐屯地がある青森市から八甲田を越え迅速に軍を進める為の軍事訓練でした。

 

出発した当初は、穏やかな天候であったものの、昼過ぎになると天気が急変し、食料が凍り付いてしまうほどに。雪をかき分け進んだ隊員たちですが、夕方には雪が胸まで積り、前に進めなくなってしまったそうです。

しかし雪は止むことなく降り続けます。兵士達は睡魔と戦いながら軍歌を歌い足踏みを続けますが、やがて次々と倒れていきました。あまりの寒さに体に血液がまわらず脳がうまく働かなくなり、異常行動を起こしてしまう者も。

救助隊が八甲田に向かったのは5日目のことでした。そして捜査中、雪の中にひとつの人影を発見します。この人が「八甲田雪中行軍遭難者銅像」のモデルとなった後藤房之助伍長です。

救援隊の目印になる為、雪の中に立っていた後藤伍長はこの時すでに、仮死状態となっていました。

 

そんな雪山の悲劇のお見舞いとして、1909年、ノルウェー国王ホーコン7世は、明治天皇宛にスキー板を進呈します。この時、もしもスキーがすでに日本に伝わっていたら、このような悲劇が起こらずに済んだのでしょうか…。

しかし、日本でのスキーの始まりはもう少し先の事となります。

 

日本にスキーを伝えた外国人

 

明治43年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国の軍人テオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が来日します。この人こそが、日本に本格的なスキーを持ち込んだ外国人です。

レルヒは、日本のオーストリア大使館で武官として働いていましたが、アルペンスキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子でもありました。そんなレルヒのスキー技術に、八甲田雪中行軍遭難事故という悲しい経験をした日本の陸軍が関心を抱きます。

 

そうして来日翌年には、新潟県上越市において陸軍にスキーの指導を行うようになりました。これが日本のスキーの始まりです。

レルヒによる最初のスキー指導が新潟県だったことから、新潟県ではご当地キャラクターとして今でも親しまれています。ちなみに、レルヒが初めて日本人にスキーを指導した日が明治44112日ということから、112日は「スキーの日」に制定されています。

 

冬季オリンピックの出場

 

レルヒのスキー指導から、徐々に日本国内でスキーが普及していきます。大正時代になると、北海道小樽市で第1回全日本スキー選手権大会が開催されます。

大正14年には全日本スキー連盟(SAJ)が誕生し、日本スキーの環境面も整備されていきました。翌年になると、国際スキー連盟(FIS)への加盟も決まります。

 

そして昭和3年、第2回冬季オリンピック、サン・モリッツ大会へ6名の日本選手を送りだします。そこに監督がついて計7名という小編成のチームでした。これが、日本の冬季オリンピックへの初参加の大会となりました。

冬季オリンピック代表は、シベリア鉄道経由でヨーロッパへ入りしました。大会前にイタリア、コルチナ・ダンペッツォで国際学生大会があると知って飛び入り参加します。

1日の16キロで矢沢武雄選手が4着、竹節作太選手が6着という記録を出します。翌日の滑降でも永田実選手が4着となり、外電でこれを知った国内の留守番部隊を大喜びさせました。

しかし、オリンピックでは、そううまくはいかず世界との差を痛感させられることとなりました。また、当時の国産スキー板は桜材で折れやすいため、選手たちは山のようにスキーをかついで現地入りしたそう。そのため、スイスの税関に密輸業者と疑われ、足止めされてしまうといったハプニングもおこりました。

 

昭和5年になると、オーストリアのスキー講師、ハンネス・シュナイダーが来日し、各地のスキー場で3カ月間にわたり指導を行います。

その後、スキー技術が進歩しオリンピックへの参加が続きます。1956年に開催された、ココルチナ・ダンペッツォ大会では、アルペンスキー競技で猪谷千春選手が銀メダルを獲得します。

日本にとって冬季オリンピック初のメダルであり、日本人スキー競技初のメダリストとなりました。

この時、第2回冬季オリンピック、サン・モリッツ大会への初参加から28年もの時が流れていました。

 

◆◆長い歴史を刻んで

 

いかがでしたでしょうか。

現在は、当たり前のように楽しまれ、日本人のメダリストも多くいるスキー。

しかしスキーにはここでご紹介したように、長く深い歴史がありました。

今年の冬、雪を見た時、ふとスキーの歴史を思い浮かべてみてください。

 

次回は、スキーの競技について詳しく見ていきましょう。

 

次回:ウィンタースポーツの定番 スキーの魅力にせまる【競技編】をお送りします。お楽しみに!