設定してすぐに豆を挽き始める音がし、コーヒーが注がれた。焙煎したコーヒーの香りが部屋いっぱいに充満し、包まれるような錯覚に陥る。
マシンはきめ細やかに泡立てたミルクをふんわりと盛り一杯を作り出す。
その間、二人とも何も言わずそれを見つめていた。
どこの部署なのか、名前は何か。
そんなことをどちらからも尋ねることはなくぼんやりと目の前のカップを見ていた。
「フラットホワイト、ね。ありがとう」
そう言って彼女は休憩室から出ていく。
俺は何も返さず、去っていく彼女の後ろ姿をもう一度見た。
いくら社内が広いといっても同じフロアの人であれば何となく顔はわかるものだ。でも彼女は初めて見る顔だった。
名古屋本社ではなく支社から来た人なのだろうか。もしくは中途入社なのかもしれない。
ぼんやりと考えていたせいでついフラットホワイトの設定を押してしまう。
レギュラーコーヒーを淹れようとしたのにな…。
日本に帰ってきてからフラットホワイトはほとんど飲んでいない。
ニュージーでの生活を思い出してしまうから飲まないようにしていたのだが、迂闊だった。
さっきつい口走ってしまったのは彼女の魅力のせいだろうか。
◆
「えー!私のコーヒーは?」
ミーティングまであと5分しかないというのに三村は声を上げてむくれた。
あの後つい自分のコーヒーだけを持って会議室へ来てしまったのだった。生憎、入れに行く時間はもう残されていない。
指摘されるまで三村に頼まれたこと自体を忘れていた。
「ごめん、後ろに人が並んでたからさ」
面倒なのでそう弁解する。
「じゃあその一杯ちょうだいよ」
意地悪そうなその笑顔に気圧されしぶしぶ渡した。
しぶしぶ渡す仕草ではあったが、本当のところ嫌ではなかった。
まだ俺自身フラットホワイトを飲む気にはなれなかったから。
「純くんがミルク入れるなんて珍しいね。いつもブラックなのに。……あれ?」
カップを握った三村が一口飲んで呟く。
「これもしかしてフラットホワイト?社内のマシンで淹れられるんだー?」
感動したようにぱっと顔を上げた。
「フラットホワイト知ってんの?」
「そりゃそうだよー。私オーストラリアにワーホリ行ってたもん。元々バリスタ目指してたし」
初耳だ。
「社内でこれが飲めるなんて思わなかったなぁ。今度からこれにしよ」
嬉しそうに独り言をいう。
隣にフラットホワイトのカップがあることでどうしても先ほど会った彼女のことを思い出してしまう。
冷涼なまなざしがミーティング中にも気になるくらい、不思議な魅力を持った人だった。
◆
ミーティングが終わって廊下に出た時だった。
ここ2階の会議室は廊下から1階のロビーが見える。吹き抜け構造になっているためだ。
ふとロビーを見ると人事部長がどうやら誰かと出かけるところだった。
翡翠色のボタンにドロップ型に開いた後ろ姿。
先ほどの彼女だった。
「あの人…」
無意識に呟いた俺の言葉と視線に気づいたのだろう。
三村が素早く階下を見て言った。
「加澄さん?純くん一緒に働いたことあったっけ?最近海外赴任から戻ってきたんだよ」
赴任から戻ってきた人だったのか。
言い終わらない内に彼女は人事部長と外へ出ていく。その先を見つめるようにして立ち止まる俺に三村がからかう。
「何見とれてんのよ。だめだよー加澄さんは。彼女はね…」
名前を知ると同時に俺は彼女の過去を知るのだった。
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純が休憩室で出会った海外勤務から戻ってきたばかりの女性、加澄。名前を知ると同時に彼女の過去を知らされることに…。