「…愛子。私、後悔はしないから。絶対に…」
そして…掴んだ手は離さない。
握った愛子の手を、きつく握りしめていた。
どんな妨害を受けようとも、正妻の座を射止めたのは珠子なのだ。
愛子はいつもと全く変わらないトーンで返答する。
「そうね…」
その時だった、軽いノック音がした。
愛子が返答をすると、キッチンワゴンを引いた芽衣が入室してきた。
そこには水差しと、消化によさそうなスープなどが乗せてあった。
「旦那様から申しつかり参りました」
芽衣は相変わらず、珠子に視線を向けない。
珠子の代わりに、愛子が「そこに置いておいて。私が食べさせるわ」と返答するが、珠子は芽衣の仰々しい態度を見つめたまま、声をかけた。
「夏目さん。ちょっと、伺っていいかしら?」
細やかに狼狽したものの、一呼吸だけおいて「何でしょうか?」とあくまでも主の妻となる女へ、丁寧な姿勢を崩さなかった。
「流沢麻梨恵さんのこと、夏目さんもご存じなの?」
はっきり言えば、知らない訳がない。
麻梨恵は『アンデルセン』で芽衣が働いている頃に、よく顔を出していた。
しかし、西園寺家で働くようになってから、この家で会ったことはない。仕事で渡米していると雄一郎から聞いていた。
芽衣は咄嗟に、どう返答すればいいのか迷った。
「幼馴染の方だと伺っておりますが、詳しくは存じ上げておりません」
ここは、当たり障りのない返答に留めるべきだろう。
詳しく探られても、芽衣自身答えられる言葉を持ち得ていない。
ただ、雄一郎と仲が良く…麻梨恵が雄一郎の妻の有力候補であったことは、西園寺家に勤めていれば、周知の事実である。
いつかそれを珠子が知る日も遠くはないだろうが、流沢と西園寺の間で、『大人の不都合』が生じて、派閥と無関係の珠子を迎えたのだろうが、詳しくは知らないのだ。