さっきの僕みたいに落ちるのかな、と見ていると。
「――ッ」
槙さんの息遣いが、ここまで聞こえたような気がした。身体を保っていたホールドから手を放し――槙さんは、跳ぶようにして腕を伸ばした。それが、狙っていたホールドをがしっとつかむ。
「っわぁ……」
間抜けな声が出てしまう。槙さんはそこから体勢を立て直すと、ぐいっと身体を引き上げてゴールへと向かっていった。どこからか、「がんば!」と声がする。
その、細い両腕が、ゴールのホールドをしっかりとつかんだ。ぶらりと下がった槙さんの顔は、あの無表情ではなく、ましてや強張ったものでも、眉間にシワを寄せたものでもなくて。
見たことないくらい、晴れやかな笑顔だった。
***
「次のレベルに進んだんですね」
しばらく経って、槙さんがやって来た。僕は「はい」と頷き、ゴールからゆっくりと壁を下った。
「楽しいですね、ボルダリング。なんというか、ゲームみたいで」
やりながら気がついたのは、ボルダリングは単なる身体だけのスポーツでないということだった。いかに最低限の力で、ゴールに辿り着くか。そのためにはどう身体を動かすかなどを考えて行う、頭も使うスポーツなのだ。
「分かります。私も、そこが楽しくて」
「でも、もう腕がくたくたで」
「足をもっと、良い位置にのせられるように考えると良いですよ。そうすると、腕が楽になります」
「なるほど、意識してみます」
答えながら、ふと。力を抜いて喋っている自分に気がついた。槙さんとの距離が、ここまで来たときよりも、ほんの少し近い気がする。
槙さんと目が合う。彼女は少しだけ口の端を上げて、「すごいですね、御前崎さん」と言った。
「え? なにがですか」
「私の趣味に付き合って来てくださっただけなのに、いろいろ考えながら取り組んでらして」
「いや、実際やってみると楽しいです。上手く登れるようになると、嬉しいですしね。達成感があります」
最近の自分を思い返す。仕事が好きで、とにかく成果を上げることが一番で、ひたすらそれを優先してきた。自分の頑張りが形として現われるのが嬉しかった。こういった趣味のようなことは、ずっと無駄だと思っていて、せいぜい身体の管理のためにジムに行くくらいだったけれど――こういう時間も、悪くないのかもしれない。
そんなことを考えていると。ふっと、目の前の槙さんが微笑んだ。
「御前崎さんって――努力家なんですね」
その、言葉を聞いた途端。
サッと、全身の血液が下がったような錯覚を覚えた。
「あ……」
頭がくらくらして、吐き気がする。槙さんが焦った顔で、でもこちらに触ることもできず、「大丈夫ですかっ?」と訊ねてくる。その声も、どこか遠い。
「大丈夫です……ちょっと」
意識して呼吸を整え、身体を起こす。まだ足元はふらついたけれど、なんとか歩ける。
「大変すみませんが、体調が……今日は、ここで失礼します」
「あ――」
槙さんはまだなにか言おうとしていたけれど、それを聞いている余裕はなかった。できるだけ手早く帰る支度をし、ジムを後にする。
「努力家」――その単語が、悪夢のように頭の中に響いていた。
***