過去に捕らわれる事も、後悔する必要もない。
今を受け入れてこそ、錦の女は咲き誇れる。
逃げることなく、これからの長い道のりを歩んでいく為に…誰の手も離さない。
それが、女の、母親の…プライドとなった!
はじめから読む▶【錦の女】vol.1~「リナ」という名まえ~
寝息を立てている裕也を背負いながら、玲子はしょーこママの言葉を思い返していた。
『逃げないでね!一度決めた事から逃げると、後悔するから。明日も私はここで待ってる!』
あんな事態を招いたのは、リナが原因であることは知っているはずなのに、ママはそう告げてリナの背中を勢いよく叩いた。
『錦の夜の街』を生き抜いてきた女性の言葉は、背負っている裕也よりも重くて…。
立ち止まりたい。
身体に纏わりついてくる、湿った先の見えない霧の中を彷徨いながら自宅のアパートに何とか辿り着きはしたが、窓の明かりは全部消えていた。
人の気配はない。
握りすぎてすっかり温くなったキーを虚しく鍵穴に滑りこませ、ドアを開ける。
玄関には、奈緒が愛用している運動靴はなかった。
入ってすぐのキッチンに、3人で過ごしたダイニングテーブルが見える。
いつもなら、調味料や朝食用のパンやシリアルが置いてあるのに、何もなく中央に小さな影だけが自己主張していた。
玲子が電気も付けずに近づくと、それは奈緒が大切にしていたコリウスの鉢植えだった。
その下にルーズリーフが1枚、挟まれている。
『お母さんへ。
お疲れ様です。
いつも、ありがとう。迷惑かけてごめんなさい。
春休みの間、お父さんの家に行きます。
少しだけ、考えたい事があるので、コリウスのお世話をお願います。
奈緒より』
「…春休み…って…」
日々に追われて、月日の感覚を失っていた玲子は、いつから奈緒が春休みに入るのかさえ把握していなかったのだ。
―何故、奈緒があやまるの?迷惑かけていたのは、私なのに!―
泣く気力も、流す涙もない。
「本当に、毒親だ…!」
護る者を奪われていく恐怖と、背負う者が重すぎて、玲子は床に座り込んだ。
背中から感じる裕也の寝息と温もりさえも、玲子を追いつめていく。
「この子は、私の子なの…」
レイラの般若のような形相が、目に焼き付いている。
彼女は心底『ユウ』が好きな事も分かる。
のぞみが『自分は親じゃない』と言いたくなった気持ちは分からない。
苦しくて痛くて、早く終わってほしいと思う分だけ、産まれてくれた子を愛おしく思った。
それが、誰の子であるのかではなく…。
―この子の人生を託された者としての責任―
それだけでは、ダメなのだろうか?