確かに子供の頃から、人の口元を見るのが癖だった。
小学校や中学校、しいて言えば幼稚園の頃から、担任の教師のビジュアルは明確には思い出せないが、口の特徴だけは記憶している。
喋ることに夢中になりすぎて、白く泡立った唾が唇の端にたまっていた社会科の教師は、自己陶酔型だった。
自分の海外生活時代の事を自慢げに話し、偏った地理の知識を押し付けてくるタイプだった。
漠然とした記憶を探っていくと、どういう口の動きをさせる人がどういう気質を持っているのかを理解し、相手に合わせる事が出来た。
それを小枝子は特技だと莉子に言った。
そして、異性は口元を見ている女性の視線を感じると、『キスを許している』と勘違いする。
これは、ターゲットを落とすのに一番利用されている、悪女の上等手段だと教えてくれた。
『私の母親が、そういうタイプだったから解るんだよ。
でも、私はそんなまどろっこしい事はしたくないから、とりあえず行っとく?ってタイプなの。』
そう言いながら、豪快に笑う小枝子とはベタベタな友人関係にはならなかったが、初めてできた本音を話せる相手になり、10年以上が過ぎた。
それまでの莉子は、奥手で静かなユルフワ女子であったはず…。
しかし、小枝子の予言通り、莉子は高層階のスイートルームで誕生日を迎えていた。
恋人ではない。愛人でもないと思う。
まして、旦那でもない。自己陶酔型の動きを見せる口元の男の招待でだ。
『30を独身で迎える女は、何故かインドに行きたくなるんだってよ?私、たぶんインド組だわ。』
小枝子はデザイナーの仕事をしながら、インターネットでオリジナルデザインの服などの販売をしていたが、独立とは程遠いようだった。
仕事をやめて、結婚して、趣味の延長で副業を続ける選択肢も何度かあったのに、彼女はその道を望まなかった。
自分の才能を信じて独立したいという彼女の夢は、時々眩しく感じる。
しかし、莉子は大学に通いながら、ネイリストの専門学校に通い始め、ネイルサロンに一旦は就職をしたが、男性専門のネイルのブームに乗っかって起業した社長と出会い、その一室を借りて23歳の時には既に個人事業主として独立を果たしていた。
『自分は運が良いだけ。』
莉子はそう思っていたが、小枝子は『運は実力。才能』と答えた。
小枝子は莉子のプライベートに関して、深く聞こうとはしない。
オーナーの愛人をしているのか?
枕営業しているのか?
なんて無粋なことは聞いてこない。
莉子も自分から吹聴することは一切ない。
あくまでも『ビジネスパートナー』としてしか認識していないのだ。
世の中に必要とされているのは、需要と供給だ。しかし、その需要を見間違えれば、供給が滞る。
ネイルサロンのオーナーが、莉子を独占したいとバランスを崩してきた為に、莉子は20代最後の誕生日をスイートルームで迎える道を選んだ。
『誕生日プレゼント。どんな車が良い?』
上唇を動かさない男の口が、莉子の瞳に映る。
―ああ、そういう事ね。車で、商売されているものね。―
莉子は派手すぎないピンクのネイルを施した中指を、男の唇にそえる。
『車は維持費がかかる割に、長持ちしないから。私はマンションが欲しい。ちゃんと独立したいの。コンパニオンなんて副業しないでもいい、起業家に憧れる。』
出来る男には二種類の女が必要だ。
自分が居なければこいつはダメだと思わせる女と、適度な刺激をくれる自立している女。
どちらかに偏れば、飽きられる。
何事も需要と供給。
自立している女でありながら、頼ってあげる事。
人の口は雄弁だ。言葉にしなくても、相手の心理は解る。
見せつけてくる金額より、確かなのは、その男の唇が教えてくれる。
YESもNOもなく、男は莉子の腰に腕を回し、握っていたグラスを奪いとってシャンペンを飲み干した。