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バタンという音を確かめるように、残された平松健太郎は目を覚ますと気怠そうに身体を起こす。そしてはぁとため息をついた。
薄手のシーツを払うと、シャワー室へ消える。
身体を流すとバスタオルを腰に巻き、部屋に現れた。濡れた黒髪を撫でつけつつ、携帯電話を持つと、夏蓮が書き残したメモを一瞥した。
そしてどこかに電話を掛ける。コール音が響き、どこかへ繋がった。
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2週間後、銀杏が葉を落とし独特な香りが街を包んでいる。
秋ももう終わるのだろうか、空気が少し肌寒い。
薄手のカーキ色のコートを羽織り、足早に大観覧車が見えるコスモワールドの横を通り過ぎる。
ピアノの悲しい旋律が、イヤホンから聞こえてくる。
音楽は時に人の心情を表すことがある。
”トリオソナタ第4番 ホ短調 BWV 528〜第2楽章:アンダンテ”
ふと流れてきたバッハのこの曲もしかり、だ。
僕は仕事で名古屋を離れ、横浜へやって来ていた。と、言ってもいつもの仕事ではない。
花屋のイメージしかない人にとって、今の僕が誰なのか分からないくらいだろう。
横浜ワールドポーターズの側に大きなロケバスが止まっていた。軽くノックすると
「おはようございまーす」
と若いスタッフらしき男性が現れた。
「おはようございます」
小さな声で返事し車に乗り込んだ。バタンと扉が重苦しく閉まる。
「急な話でごめんなさいね、モデルに空きが出ちゃったの」
車内で少し狭そうに腰を沈めて声を掛けてきたのは、サングラス姿の少し派手なマダムだった。
僕は言葉少なに頭を下げると、久々の少し埃っぽくカビの香りがする車内に身体を沈める。
車は静かに出発した。
「ノア、久しぶりね。少し痩せたかしら?」
「亜由美さんもお元気そうですね」
今日は緊急とはいえ、僕が数年ぶりにモデル業に一瞬でも復帰するのは本意ではなかった。
今の仕事に満足していたし、復帰など考えていなかった。
当時在籍していたときに迷惑をかけた社長から、直々のオファーだったからだ。
流石に、断れなかった。
撮影場所へ到着し、控え室で衣装に着替えメイクしてもらう。
「ノア、幾つになったの?今は花屋なんだって?」
亜由美さんが僕の肩に手を添わせ、満面の笑顔で見つめてきた。
「28です」
「素敵、筋肉もしっかりついてるわ」
鏡で僕をじっとりと見つめながら、身体に慣れた様に滑り込んでくる彼女の指の手慣れた動き。彼女にとって僕は「お気に入り」だった。
ファッション誌の編集長であるかなり年上の彼女から、まるで玩具のように可愛がられ色々なことを教えてもらった。彼女の前では僕はただの犬のぬいぐるみになる。
雑誌用の洋服撮影を終えた後、軽い食事とシャンパンを飲むと当たり前かのように、コンチネンタルホテルへ連れていかれた。
今でも夢に見るぐらい何度も体験したのに年齢など感じさせない終わらない性欲を前に、僕は窓の外から見える蒼海を思う。
彼女との情事はまるで海に身体が沈んで息ができないような圧迫感がある。
それでも彼女は僕などまるで気にしていない。
天井へ手を伸ばす。真っ暗な闇しか掴み取れない。
◆
シャワーを浴び、揺蕩(たゆた)うような時間を楽しんでいる亜由美さんを残し、僕はホテルを後にした。
”またね”
LINEにそれだけ残されている。複雑な感情が苦い唾となって込み上げてきた。
ホテル裏口の手動ドアを出た時、ある男の強い視線を感じ見つめ返した。
「…蓮城ノアさん?」
低い声が僕の名前を呼ぶ、少し考え頷く。
先程まで僕が写真に撮られていたブリオーニのスーツに身を包み、レクサスに少し寄りかかって斜に構えた視線。見た目、僕と同世代の男性のようだ。
「俺は平松健太郎、君と少し話がしたい」
目線の向こうでは、残飯を漁っていたカラスの飛び立つ音が聞こえた。
「婚約者の佐々木夏蓮のことで」
さあどうぞ、と車のドアを開かれ招かれる。
互いに微笑は絶やさないが、瞳は全く笑ってはいない。
「分かった」
逃げ場など有る訳がない、僕は導かれた席へと乗り込んだ。
無言でハンドルを握り急発進する車、ブリオーニのスーツ、久々のモデルの仕事、可愛りの年上マダム、そしてこの平松という男。
全てが、綺麗に繋がった。
Next:10月25日更新予定
次週最終回。結婚式当日、早朝に式場入りした夏蓮。そこには式場を飾る色とりどりの花たちをセッティングするノアの姿があった。