私の目に映ったのは一つ年下の弟、万丈モーターズの後継者の和貴だった。
ブリオーニの光沢ある細身のスーツを着て、すっかりビジネスモードだった。
前回:ルピナス―芽吹く街角で 第一章 vol.3~平日、アートアクアリウムでの彼とのデート。謎の男に惹かれる令嬢だったが”天敵”に見つかってしまう...~
はじめから読む:ルピナス―芽吹く街角で 第一章 vol.1~世間知らずの令嬢インフルエンサー、500万フォロワー女子の悩みとは?~
弟と共にいる初老の男性は、どうやら美術館のオーナーのよう。
「姉さんは相変わらず暇なんだね、大学サボって彼氏連れて金魚見物か」
「あんたがなんでここにいるの?」
先程までの笑顔が心の奥底に消えていき、私は冷たい声で呟いた。
「来月、うちの会社と美術館がコラボしてアート展を開くんだ、今日はその打ち合わせ」
当たり前のように、私が知らないことを前提に話を進める和貴。
「その人、彼氏?」
父の面影そっくりな弟が指さした先には、いつの間にか隣に立っているノアさんがいた。
「そうよ」
きっと弟を睨む。
「だからなに?」
「いや…今週末、お見合いなのに、よくデートなんてしてるなって思ってさ」
家の責任なんてなーんにもない姉さんは、実に気楽なもんだよな。
和貴の顔にはそう書いてあるようだった。オーナーに促され通り過ぎさまに
「結婚した後にセフレにするの?その男」
顔を歪ませてそう呟く和貴の声に、自分の血が沸騰する音が聞こえた。
でも他の客の目もある。私がここで何か言えるわけがない。
唇を強く噛み締め、長く美しく整えた爪を握りしめると掌がひどく痛んだ。
「茉莉花」
あれからどれぐらい時間が経ったのだろう、私は優しく呼ぶノアさんの声にそっと彼を見上げた。
どんな表情をしていただろう?鏡なんて見たくない、きっと苦い顔だ。
「行こう」
そっと私の右手を取って出口へ歩く彼についていく。遠くから真っ赤な出目金が私たちを静かに漂いながら見つめていた。
◆
インスタの止まらない通知の音に、スマホの震えが止まらない。
建物から出ると太陽の肌を刺すような光と蝉の音で、現実に引き戻される。
ノアさんはそのまま少し歩こうと言った。普通ならこんな炎天下の外なんて肌も焼けるし絶対に歩きたくない。
でも今の私は、タクシーで家に絶対帰りたくなかった。
私たちは近くにあった児童公園の木陰のベンチに腰掛けた。昼ということもあって誰もいない。ノアさんはいつのまにか冷たい水のペットボトルを二本買っていてくれた。そっと手渡してくれる。
キャップを開け冷たい水を喉に流し込むと、いつのまにか全身に汗が伝っていたことにやっと気づいた。
「ゆっくり飲んで」
そういうとノアさんはすっと水を喉に流し込んだ。
「ごめんなさい。さっき、ノアさんにも恥をかかせてしまったわ」
ジーンという蝉の音がひときわ大きく聞こえる。
「大丈夫」
綺麗な声が、私の心に確かに響いて少しだけ視界が滲んだ。