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深い冷たい海の底には、何があるんだろう。
「新郎、平松健太郎、汝は病める時も健やかな時もこの女性を愛し、妻として慈しむ事を誓いますか?」
「はい、誓います」
「新婦、佐々木夏蓮、汝は病める時も健やかな時もこの男性を愛し、夫として慈しむ事を誓いますか?」
真っ白なウェディングドレス、シルクのグローブでそっと手に持つのは夏蓮が愛した男からの最後のメッセージ。
式場ではラフマニノフのヴォーカリーズが静かに奏でられている。
「はい、誓います」
一呼吸おいて、私は応える。
「誓いのキスを」
神父の声に、夏蓮のヴェールは上げられ健太郎の視線と重なる。
そっと彼女が瞳を瞑ると、彼の唇がそっと重なった。
大きな拍手と歓声が上がる、式場は星空のプロジェクションマッピングで美しく輝きを放った。
名もなき海で、一人の青年が水面から顔を上げた。冬の海は冷たく命に関わる。
それでも彼は一度、死ななくてはならなかった。
過去の自分を全て精算するために。海面上で真っ白な息を吐いて苦しげに息をついたのは蓮城ノアだ。
空を見上げるとひどく曇っていて、太陽がまるで見えない。
式場では新たに夫婦となった平松夫妻が、友人や親族から祝福を受けていた。
フラワーシャワーが二人の頭上から降り注ぐ。
名も知らぬ海岸にびしょ濡れで裸足のまま砂浜に、ひとり倒れ込むノア。
『もう出会うことも、きっとない』
彼女が手に持つ、冬の蓮の花。
花言葉は清らかな心と、救済。互いに望み一度は手を伸ばした希望。
そして...「離れゆく愛」。
これが蓮城ノアがずっと彼女に抱いていた愛と憎しみの果てである。
大きく息を吐き深く瞳を閉じた後、声にならない叫び声を彼は上げた。
眩い光が夏蓮を包む、彼女は少しだけ寂しげに微笑んだ。
暗い影がノアを包む、彼は少しだけ微笑み、そして立ち上がった。
そして砂浜に静かに足跡だけを残し、その場を後にした。
◆
季節は巡り、春。
ソメイヨシノが花屋Lupinの店先に花びらを散らす。
蓮城ノアは花屋に勤めながら、フラワーアレンジメントの資格を取るため教材を仕事の合間に静かに見つめている。
「あの、すいません...花を見せてもらっていいですか?」
店先では少し頬を赤めた女性が立っている、目線は彼から離れない。
少しズレた丸い眼鏡の縁を人差し指で上げると、店の丸椅子から立ち上がり優しく微笑んだ。
「いらっしゃいませ、Lupinへようこそ。お探しの花についてうかがいましょう」
柔らかな日差しがノアを照らす、光と影のコントラストが美しく彼を映し出していた。
―The End―
はじめから読む:ルピナス―芽吹く街角で 第一章 vol.1~世間知らずの令嬢インフルエンサー、500万フォロワー女子の悩みとは?~