私たちは方向を変えた。
組合が進めているのを見て、焦って始めたSNSの頻度を下げ、その分の時間を準備や接客の向上、反省にあて、お客様一人一人に接する時間を増やした。
売り上げはもちろんだが、それよりも従業員やお客様の笑顔のために時間を使った。
はじめから読む:きっとこの先は。vol.1~この夜を迎えるまでは~
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そして、組合が出す報告も敢えて見ることを止めた。自分が全てに集中を払いきることが出来るほどの人間ではないことを許し、ちゃんとみんなを頼ることにしたのだ。
すると仕事がうまく回り始めた。新規のお客様の割合は減りつつも、常連客が徐々に戻り始めた。以前よりも目の前のお客様に接する時間が増えたことにより、何が求められており、何をするべきなのかをよく把握することが出来ている。
「女将さん、今日夜に予約入りました!」
お店の電話を取った美雪さんが呼びに来た。久しぶりに新規の予約とのことで、飛んできたようだ。
「うちの虜にしちゃいましょうね!」
「ふふ、そうね。お名前は?」
「桜井様です」
その名前に、表情が一瞬固まった。しかし、美雪さんがそれに気づくよりも早く、美雪さんに向き直る。
「ありがとう。準備に戻って」
力強く同意の声を上げると、美雪さんは軽快にその場を去っていった。桜井。その名前には聞き覚えがある。もちろん、今までの友人にも同じ名前の人物は大勢いる。しかし、頭には鯉の池で鈴木の後ろに立っていた女性が、いやでも浮かんでくる。あの時はあまり気に留めていなかったが、組合をまとめる鈴木が連れてくるのだ。相当な思い入れがあるのだろう。
「とはいえ、お客様ね。しっかりと準備しないと」
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予約の日になった。当日までは別人である希望を一欠片だけ持っていたが、その希望はただの希望でしかなかった。玄関に現れた桜井は、鯉の池で見たように、静かだが気品を纏った佇まいで立っていた。
「ご予約の桜井様ですね。お待ちしておりました」
「本日はよろしくお願いいたします。とても綺麗なお店ですね」
「ありがとうございます」
お互いの社交辞令の応酬を終え、桜井を客室に案内する。
「本日は当店をお選びいただき、誠にありがとうございます。順にお料理をお出しいたしますので、お楽しみください」
「ありがとうございます」
桜井は変わらず、気品を纏ったまま返事をした。