桜井と紹介された着物の女性がお辞儀をする。腰の前で手を重ね、ゆっくりと。しかし緩急のついた動作でお辞儀する様は、彼女が一つのお店の顔であることを物語っていた。一言も喋らず、一歩下がった位置に立つ。少し前の時代であれば、これが“理想の女性”として持て囃されていただろう。
「さて、今日お呼びしたのは、お仕事を手伝っていただけないかと思ってのご相談です」
「相談…?」
「はい。結論から言います。僕の会社が主催する長良川沿いの料亭組合にご参加いただけないでしょうか」
鈴木が言うには、現在鈴木は岐阜市内の長良川沿いに連ねる料亭や割烹のお店に声をかけ、一つの組合を作ろうとしているとのことだった。社会情勢もあり、有名なお店が畳むしかない状況が続いている中で、一つの組合を作ってお店ごとに助け合っていきたいとのことだ。組合に入会している料亭は、屋号の頭に組合を示すマークを記載し、月毎に売上のうちの数%を組合に付与することで、経営が厳しくなった店舗への支援金とする方針だった。納入する額は段階があり、選べる方式となっており、額が大きくなるほど組合からの支援が大きくなるとのことだった。自分のお店のホームページ運用等も、請け負ってくれるらしい。経営面からすると、とても美味しい話に思えた。しかし…
「すみません。お断りします」
「…そうだと思いました」
たしかに組合に入ることで得られるものは大きいように思える。プロモーションや資金面で頼ることができ、連携が高まればできることも格段に増えていくだろう。しかし、それはもはや私たちの料亭ではなく、組合の料亭になってしまう。一般化して慣らされた集客や、画一化された接客は、多くのお客様に対応の差別なくサービスを届けるためには最適だ。しかし、私たちは1人のお客様の人生の数時間を、最高のものにするために力を投じている。一般化ではなく、お客様に合わせた接客をすることにプライドを持っている。
「僕も、この岐阜の素晴らしい風景と文化を守りたい。その一心でお声がけしました」
彼の表情が、幾分か濁っているように見えた。先ほどから、口角や目尻の位置は変わっていないのだが。単なる思い込みなのかもしれない。
「そのためには、昔からこの岐阜の伝統を重んじていた貴女の力が必要だと」
彼の口はスピードも変えずに正確に発声を続ける。
「…わかりました。今は良いでしょう。また、お店にうかがいますね」
「お客様としてなら、いつでも最高のもてなしをする。私たちのプライドにかけて」
「プライド…。今の時代には、あまり似合わないかもしれませんよ」
そう言って、鈴木は私の横をすり抜け、公園をあとにした。