―はあ。楽しそう…。わたしも生活に潤いが欲しい。
学生時代は勉強ばかりしていた。
そうでなければ研究員になる夢には近づけなかった。
「ガリ勉」「地味」「真面目」。
そう言われることに恥ずかしさやコンプレックスを覚えることもなくはなかった。
明るく活発な子がちやほやされた学生時代。
男の子と仲良くしている子を見て、いいな、と思うこともあった。
「河合さんって、アイドルにいそう。」
「でも、近づき辛いんだよね。」
というような噂話を男子がしているのは知っていた。
顔がパンパンで、二重幅の狭い自分の顔を可愛いと思ったことは一度もない。
からかわれているのだと思った。
『研究員になる』
幸枝はそれだけを目標に掲げて青春時代を送ってきた。
だから、異性関係において、幸枝は昔から思い出という思い出がなかった。
無事に製薬会社へと就職した今、過去を振り返っても後悔はしていない。
『わたしはちゃんと努力して、自分の夢を叶えられたんだ』
という揺るがない誇りがあった。
現状に満足しているならいいではないか。
これ以上バランスを崩すような出来事を、あえてつくる必要はないのだから。
ふと我に返る。
―今日は、必要以上に頭を使ってしまった。
物思いにふけっていた時間を無駄にしてしまった、と半分になったコーヒーに目を落とす。
周りを見てみると、どうやらあのバカップルは退店したようだった。
いつの間にか幸枝の隣には、サラリーマン風の男性が座っていた。
新聞を読みながらカップをすすっている。
自己主張の強そうなしっかりとした眉毛に、彫りの深い目もと。
分厚い唇は、ほんのりピンクに色づいている。
見た感じ背も高そうだ。
180センチはあるのではないだろうか。
ブランドに疎い幸枝でも、ひと目で高級品だとわかるほどのスーツをビシッと着ていた。
―見ない顔だな。
ここは、吹上駅から徒歩数分、路地裏にあるお店だ。
ふらっと寄ったわけではないだろう。
―このお店はあまり知られたくないな。
幸枝はお気に入りの店に人が押し寄せないかと、心配だった。
店内に客はまばらだ。
BGMにはショパンのノクターン第二番が流れている。
やはり、この店は格別だ。
夢と現実の狭間でまどろみかけたころ、パサパサと何かが床に落ちる音がしてぱっと目が覚めた。
見ると、隣のサラリーマンが慌てて床に落ちた書類を拾っていた。
「大丈夫ですか。」
散らかりようが半端ではなく、幸枝も椅子から立ち上がり手伝う。
「ありがとうございます。」
やはり焦っているのだろう、手元がせわしなく動いている。
書類の中に〝不動産登記″の文字が見えた気がした。
「どうぞ。」
集めた書類を全て手渡すと、申し訳なさそうにお礼を言われる。
「すみません。ありがとうございます。」
まだ幼さがほのかに残った顔。
歳は幸枝とそう違わない気がした。
声は思ったよりも低く、心臓を掴まれた気になる。
いえ、と言いながら席に着く。
サラリーマンも同じく席に着く。
何となく居心地が悪く、そわそわする。
―今日の分はリフレッシュしたし、もう帰ろう。
ほんの少し残っていたブルーマウンテンを一気に飲み干し、マスターにお礼を言って幸枝は店を出た。
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