幸いケガは無かったが、裕司はそのまま加奈恵を見下すようにすると、機嫌悪く足音を立てて、自分の部屋の方へ向かっていった。ドアが閉じる大きな音がする。
加奈恵はショックを受けていた。ケガが無いとは言え、心が痛む。
「お母さん、大丈夫?」
春樹が駆け寄ってくる。加奈恵は春樹に、大丈夫よ、と返しながらも、そういえばこの子は最近口数が少ないなと気付いた。裕司に委縮しているのかもしれない。
加奈恵にこそ話しかけてくるものの、裕司が同席している場だとあまりしゃべらないことがほとんどだ。
春樹はもしかして、裕司のことを怖がっているのではないだろうか。それに、びくびくしていることも多くて、裕司の前で失敗しないようにと気を遣っているように見える。
「……ごめんね、春樹」
加奈恵は、心配そうにこちらを覗き込んでくる春樹の頭をそっと撫でた。春樹は生来の優しい性格のためか、今にも泣きそうな顔をして、加奈恵の転んだ足の辺りをぎこちなく擦っていた。その姿を見た加奈恵は泣きそうになる。
「私は大丈夫だから。……春樹の方が」
そこから先の言葉は、続かなかった。春樹の方が大丈夫じゃないみたい。そう言いたかったが、加奈恵は声を詰まらせてしまう。
あの一件以来、裕司の教育はより厳しいものになった。
春樹はまだ小学校低学年だというのに、早くも塾に通わさせられた。そして、体力と精神力を鍛えるためだと言われて、瑞穂区に幾つかあるうちのひとつの、子供向けの剣道道場にまで無理矢理行かされることになった。
元々春樹は、運動が向いていない。運動音痴なわけではないのだが、あまり勝敗を競う事柄に向いているタイプではなかった。
だから、当然加奈恵は反対したのだが……。
「俺の教育方針に逆らうのか?」
裕司はぎろりと加奈恵を睨んだ。
「ならいいんだけどな、別に離婚したって。ただ、そしたら春樹はもらうぞ」
「そんな、それって……!」
それってあんまりじゃない、と、加奈恵は言おうとした。別に離婚しようと思っている訳じゃないし、当然だけど春樹と離れるつもりはなかった。
しかし、これでは春樹を人質にとられているも同然だった。
「じゃあ大人しく俺の言うことに従えよ。お前たちの面倒、誰がみてると思ってるんだ」
裕司の言うことに黙り込むしかない。加奈恵はぎゅっと服の裾を強く握り締めた。
***
そしてまたそれから少し経ち、加奈恵は、いつもいい子にして塾に習い事にと通っている春樹の本音を聞くことになる……。
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裕司に暴力をふられてから何も言い出せなくなってしまった加奈恵。だが、あることにより一人息子・春樹の本音を知ることとなる。