部屋に入り、荷物を置くと同時に賢人は水希を抱きしめた。
彼女の体は一瞬強張ったけれど、すぐに柔らかい態度になる。
はじめから読む:二つの顔を持つ男 vol.1~もうひとつの仮面~
「ねえ、水希。俺と出会ってくれてありがとう」
「……ど、どうしたの、賢人さん?」
水希は明らかに戸惑っている。しかし、少し体を離してその綺麗な顔を見下ろすと、酒も飲んでいないのに頬が紅潮していて、寧ろ賢人の言葉に照れている様子なのがわかる。
「いや、思ったんだよ。全部水希のおかげだなって」
少し口元に笑みを湛(たた)えて言う。それは嘘ではない。オギワラのスクープも撮れたし、おいしい思いが出来たのは水希のおかげでもある。
「何のこと?」
「仕事もうまくいきそうだし……」
そこまで言って、付け加える。「君みたいにかわいい人に会えること、そうないから」
「え?」
「なにか疑問?」
水希の言葉に、賢人はにこりと微笑んで首をわずかに傾げてみせる。何かおかしいことでも言った?そんな面持ちで。
すると、水希はどこか信じられないような顔をして再度訊ね返してくる。
「本当?ほんとにかわいいって思ってくれてる?」
「うん」
間髪をいれずに返すと、水希は感激したようにこちらを抱き着き返した。
「ありがとう、賢人さん」
水希は、賢人の態度に安堵したらしい。そこからようやくぽつりぽつりとだが、段々と本音らしきものを語り始めた。
「最近、仕事でいつも不安だったの。周りからは頑張ってるって言われるけど、私はいつも必死でやってた。上手く出来てないんじゃないかって、それが不安で」
賢人は、うんうんと頷きながら相手が喋り続けるのにまかせた。水希はやがて奔流のように、今までの仕事への不満や将来への不安をこちらにぶつけてきた。
「それに、上司もさっき言ったみたいな感じだし……。セクハラひどいし、結構横暴な時も多いんだよ」
「セクハラは嫌だね」
一言だけ、同調するような感想を漏らすと「でしょ!」と、水希は速攻で食いついてきた。
「毎日仕事と家の往復で、本当はすごく疲れてたの。私の人生、このまま過ぎていくのかなって思ってた……。でも、そんな時にあなたに会えて、私も本当に嬉しかったの」
わずかに、ごくごくわずかに胸に澱が残る。この強い女性もしょせん普通の女に過ぎなかったのだ。だますことや彼女の幼気な恋心を弄んでいることに心は痛まないが、ほんの少しだけ、苦笑が漏れそうになる。
「だからね、賢人さん。私、賢人さんと一緒になりたくて色々考えてるんだよ。結婚式とか、子供のこととか……。例えばね」
「うん、わかったよ。水希、とりあえず座ろう。ほら、こっちに。飲み物用意するよ」
子どもが出来たら高級住宅地に住みたいのだと言う彼女の演説は、止まらなくなっていた。結婚式は盛大に挙げたいっていうのが私の昔からの夢だったのとか、子供は何人欲しかったのとか、本当は何歳までに結婚したかったの……とか。
そんな言葉に相槌を打ちながら、賢人は彼女が眠ってしまうのを待つ。
眠ってしまったらそのあとは、静かに部屋を抜け出すのみだ。
水希が眠そうにしていたところで、賢人は彼女に眠っていいよと声を掛けて促した。着替えると彼女はすぐにベッドに入って寝てしまう。賢人はそっとそんな彼女に布団を掛けると、音を立てないようにして自分の荷物を纏め、それらを持ってそっと部屋を抜け出した。