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秘書の名前は、鹿嶋水希。
有名私立大学出身。いかにもエリートコースを歩んできた、キャリアウーマンだ。
勉強しかできないのかと言われればそうでもなく、相当な美人である。
濃いブラウンの髪は背中まで伸びていて、染めている割には艶やかで綺麗だった。話によると、印象作りのために毎月の美容院は欠かさないらしい。
マスカラでばっちりの睫毛に黒目がちの瞳。背筋は常に伸びていて、ぱりっと着こなした黒のスーツ上下。
典型的な、強い女性。
(ただ……)
と、デスクに向かい、個人的に纏めた資料を見ながら、賢人は考える。
そんな美人なら数々の浮名を流しているだろうと思ったが、実際には、あまり男の影はないらしい。
(お堅いタイプか)
まあ、接触すれば分かることだ。ほくそ笑んだ賢人は、椅子を引いて立ち上がる。
さて――。
ここからが、もうひとつの、仕事だ。
- * *
一旦自宅に帰った賢人は上等な背広へと袖を通してから、再び外に出かける。髪を梳かし、整髪料でオールバックに整えた。マウスウォッシュにオーデコロン。
「どこからどう見たって、青年実業家か若社長あたりだな、こりゃ」
一人呟くと、千種区星が丘――洒落たカフェやレストランが並ぶ場所だ。ターゲットはこの周辺で仕事があったらしい――の路上で、彼女を待った。
すると、コツコツとハイヒールの足音が響いてきた。賢人が目を向ける。
いた、気の強そうな美女――。
(鹿嶋水希だ)
「おっと」
彼女の方に歩き出した賢人は、左手首にはめている時計を見る振りをして、少しだけ足を止めた。しかし、時計に目をやったままもう一度歩き出そうとして、わざと水希の方によろける。
「きゃ」
水希が軽く声を上げた。しかし、それと同時に賢人も声を上げる。
「すみません!」
賢人は軽く慌てる振りをした。
「ごめんなさい、ぶつかってないですか?」
「あ、いえ」
水希が僅かに目を見開いた。
最初、こちらを見た水希は、いかにもうさんくさそうな顔をしていた。
けれど、賢人のその姿を認めた瞬間、ぱっとその瞳が賢人に釘付けになったのを、賢人は見逃さなかった。
「お怪我はありませんか」
水希の警戒心は途端に薄れたようだった。「大丈夫です」と答えた水希は、寧ろ軽く笑みさえ浮かべている。
賢人は、自分に演技力が備わっていることを知っている。
「よかった」
と、少しの安堵。そこからの爽やかな微笑みは完璧だった。
「あの……。そちらは?」
「僕は大丈夫ですよ」
と、水希を見つめる賢人の目が細められる。
見る者が見れば気が付くだろう。獲物を毒牙に掛けようとしている、そんな目だった。
(ごめん。でも、これもスクープのためなんだ)
賢人は内心、水希に謝りながらも、すっと口元に妖しげな笑みを湛えて、目の前の美女を見つめる。
そうして仮面を改めて被り直した。
『突如として水希の前に現れた、見目麗しい若社長』
それが、雑誌記者である結城賢人の、もうひとつの仮面だった。
Next:11月1日更新予定
美人秘書・水希に接触した賢人は「とある会社の若社長」と嘘の肩書を名乗る。この日は一旦去ることにしたが、次の日また偶然を装い彼女の通うバーへと向かう。