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「準備は済んだわね」
「はい、女将さん!ばっちりですよ!」
「最後まで油断しないの」
今日の予約の準備が整った。お座敷や廊下みたいな目に見える部分の掃除、仲居の配置と流れの確認、お料理の確認、芸者さんの手配まで、隙なく全てを予測して完璧に準備する。誰がお客様でもここまでの準備は当たり前であるから故に、「慣れた作業」になってしまいがちだ。しかし、私たちにとってはいつも通りの作業かもしれずとも、お客様にとっては一生に一度の数時間かもしれない。そう思うと、怠ることなど出来はしないのだ。
ご予約の時間まで残り1時間を切り、いよいよ私たちの本番が始まる。
「皆、気を引き締めて。でも笑顔で。よろしくね」
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ご予約の時間の少し前、すべてを整えて玄関前に並ぶ。少しすると、お店の前に人の気配がし始めた。まるで、雨が降る少し前に、もうすぐしたら雨が降ることが分かるように、なんというか、匂いのようなものを感じることがあるのだ。この匂いを感じると、自然と背に力が入る。
戸が開く。
「いらっしゃいま・・・」
最初に入ってきた男を見て、私は思わず言葉を落としてしまった。
「予約しておりました大野です。もう少しで、先生がお着きになりますので」
「いらっしゃいませ、大野様。お待ちしておりました」
大野、というのはこの男の名前ではない。私は動揺を悟られないように、いつもよりも力をこめる。この男は―。
「鈴木くん、ありがとう。どうも、大野です。よろしくお願いいたします」
後ろから入ってきた白髪の初老の男性。この男性が大野。IT会社の役員をしている方とのことだ。そして最初に入ってきた男は鈴木信也。
―ごめん。
―なんで。
―僕はまだ・・・。
私の、元婚約者だ。
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