誰しもが一度は耳にしたことがあるであろう「アンネの日記」。現在その日記は、70以上もの言語に翻訳され世界中で最も読まれています。学校や図書館などでも「日記で平和を願った少女」として子供でも分かりやすく紹介されているのを見かけることでしょう。この記事では、15歳という短い人生の中で彼女が残したモノについてご紹介します。
「薬を10錠飲むよりも、心から笑った方がずっと効果があるはず」
これはアンネが残した言葉のひとつ。この記事を読み終えた時、きっとあなたの心は温かい気持ちで溢れていることでしょう。
アンネ・フランクの生い立ち
1929年6月12日、ドイツのフランクフルトで誕生したアンネ・フランク。父はユダヤ系ドイツ人のオットー・フランク。母も同じくユダヤ系ドイツ人のエーディト・フランクです。父オットーは銀行家、母エーディトは有名な資産家の娘でした。アンネは2人の次女であり、3歳上に姉・マルゴット・フランク(以下マルゴー)がいました。そんなフランク一家は中産階級のユダヤ人一家でしたが、ユダヤ教にも、その他の宗教にもあまり興味を持っていなかったそうです。
1931年3月、フランクフルト郊外のマルバッハヴェークのアパートから、ガングホーファー通り24番地のアパートへ引っ越します。しかし、フランク一家の家業でもある銀行業が、世界的な不況から立ち直ることができず、業績は悪化していきました。フランク一家の経済水準は、当時のドイツ国民よりは高かったものの、節約のためアパートを借りることをやめ、ヨルダン通りにある実家へ戻ることになったのです。この実家は、アンネの父方の祖父ミヒャエルが購入した高級住宅でした。
フランク一家は実家に戻ったあとも、休みの日になると旅行やショッピングに出かけていたそうで、仲の良い家族だったことがわかります。
当時のドイツの社会情勢―<反ユダヤ主義>
フランク一家が実家に戻り、旅行やショッピングに出かけていたころ、ドイツの政治は「反ユダヤ主義」を掲げる「国家社会主義ドイツ労働者党」が急速に成長していました。1932年には、国会で最大議席を獲得し、その党首アドルフ・ヒトラーが首相に任命されるのも目前に迫っていた時です。フランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊員の姿が多く見られるようになっていきました。
そして翌年の1933年になると、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーがドイツの政権を掌握。これに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人たち約6万3,000人が、次々と国外へ亡命していきました。また、3月のフランクフルト市議会選挙でも、国家社会主義ドイツ労働者党が圧勝。市の中心では、党員たちが揃って大規模な反ユダヤ主義デモを行いました。4月には、制定された職業官吏再建法によって、反ユダヤ主義に従わない教師は次々と停職、退職処分となったそう。そして、学校内でもユダヤ人の子供の隔離が進められていきました。アンネも、姉のマルゴーもドイツで満足いく教育を受けることができなくなったということです。
そのような状況により、アンネの父オットーは、ドイツに残ることの危険性を考えついにオランダへ亡命することを決めます。オランダには、アンネの叔父であるエーリヒ・エリーアスがおり、ジャム製造に使うペクチンをつくる会社の子会社を経営していました。そんなエリーアスが義理の兄にあたるオットーに、“オランダ・アムステルダムへ亡命して、オランダ支社を経営しないか”と勧めたことがきっかけとなったそう。
そして6月、仕事と住居を安定させるため、オットーが単身でアムステルダムへ移ります。その間アンネは、母と姉と一緒に、アーヘンで暮らす母方の祖母ローザ・ホーレンダーの家で暮らすことに。そしてオットーは信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せることに成功し、一家で暮らすのにちょうどいい家も見つけます。12月には、アンネの母エーディトと姉マルゴーが移住し、アンネは翌年の1934年2月に移住していきました。
当時のドイツの社会情勢―<ドイツ軍のオランダ侵略>
ドイツ軍のポーランド侵略によって始まった第二次世界大戦にオランダは中立を宣言していました。しかしヒトラーは「イギリス軍機がドイツ空爆のためにオランダ領空を通過していくことを黙認している」と主張し、1940年5月10日早朝にドイツ軍をオランダへ侵攻させました。人々は食料を蓄えようと商店に殺到し、オランダ国内はパニックに。街中には空襲警報が連発しました。そして、オランダ国内にいるドイツ人は手当たり次第にオランダ当局に逮捕されます。フランク一家は自動車を所持していなかったこともあり、2人の娘を連れて逃げ回ることはできませんでした。
ドイツの総戦力体制が強まっていくと、ユダヤ人狩りが頻繁に行われるようになってきました。危険が迫ってきたと判断した父オットーは、一家を連れて用意した隠れ家へ逃げ込みました。
日記を書くに至った経緯
アンネは13歳の誕生日に日記をプレゼントされました。その日記に、隠れ家で過ごした2年間の出来事や感情を綴るようになったのです。そんなある日のこと、イギリスに亡命していたオランダ政府の教育大臣が、ラジオを通じて戦時中の日記や書類を保存しておくよう呼びかけました。そのラジオを聞いたアンネは、今まで書いてきた日記を「後ろの家」という物語としてまとめることを思いつき、日記の清書を始めたのでした。しかし、その作業が終了する前に、隠れ家が警察によって発見されてしまうのです。
「アンネの日記」は、隠れ家のものが全て持ち出される前に支援者が隠し、警察の襲撃にも負けずに保存されました。
<連行と死>
隠れ家の住人たちは、ビルケナウ強制絶滅収容所へと輸送されました。ビルケナウ強制絶滅収容所へ列車で向かう旅は3日間続き、水も食料もほとんど与えられず、小さな桶がトイレの代わりでした。アウシュヴィッツに到着すると、重労働ができる者とできない者に選別され、できない者はガス室送りに。そしてアンネは母と姉と共に女子労働施設へ、父は男子収容施設へ送られました。
そして、1944年11月、アンネは姉と共にベルゲン・ベルセン強制収容所に移送されました。収容所の環境は非常に悪く、食料はほとんど与えられず、寒い場所で2人は発疹チフスにかかります。その病が元となり、アンネは1945年2月に命を落としました。家族で生き延びたのはアンネの父、オットーだけでした。
「アンネの日記」
無事に保管されていた「アンネの日記」には、将来の夢などが綴られており父オットーに深い感銘を与えます。そして、その日記の存在を知ったオットーの友人たちが日記の出版を勧めたことにより、1947年に3000部が出版されました。そんな「アンネの日記」の出版は、3000部に留まらず今や、70の言語に翻訳され、劇や映画になり、世界中に知れ渡ることとなりました。
アンネは
「希望があるところに人生もある。希望が新しい勇気をもたらし、再び強い気持ちにしてくれる」
「私の想像の翼は、閉じ込められても閉じ込められても、羽ばたき続けるの」
と語っています。
アンネの強い気持ちは、現代もそして未来にも永遠に羽ばたき続け、人々の心に平和を生むことでしょう。
私達は皆、幸せになることを目的に生きています。
私達の人生はひとりひとり違うけれど、されど皆同じなのです。
参考:Anne Frank House https://www.annefrank.org/en/
- Author information - yumeka 自分が書いた文章が世に出て、読者の目に触れることに喜びを感じつつ、学びが尽きないライター業を楽しんでいます。誰かの心を動かすことができたら…幸いです。 |